奈良市佐紀町の祭りから学べること

奈良コラム

奈良市佐紀町にある釣殿神社。その神社の例祭は、毎年、体育の日の前日に行われます。美しい布団神輿の上に神様をお連れし、町中を練り歩き、その地域の安寧と発展を祈ります。その伝統文化が現代に生きる我々にもたらしてくれることを考察します。

釣殿神社の例祭とは?

長い歴史を持つ奈良では、様々な伝統行事が毎日のように行われています。平城宮跡の北部に位置する釣殿神社の祭りもその中の一つ。隣接する佐紀神社と同じ日に、神社の祭り、すなわち例祭を行います。

布団神輿を組み立てるのは、前日の晩と当日の早朝。組み立てられた神輿を神社に運んだ後、神主さんによる儀式が始まります。祈祷、参拝者へのお祓い、そして、神輿へのお祓いを行います。

神主さんの儀式が終わった後は、神社の詰め所で決起集会のようなものが執り行われます。青年団メンバーとそのOBがお酒を酌み交わし、祭りの本番へと盛り上げていきます。詰め所の内部には昔の祭りの写真などが飾られており、この祭りの歴史の深さを感じさせられます。

そしていよいよ、布団神輿の練り歩き。釣殿神社や近鉄西大寺駅近辺から氏子さんが暮らす村の間は台車に乗せて、村の中では男衆の肩に担いで神輿は運ばれます。神輿の内部には、神様の使いとして子供たちが座っています。木組みの神輿とそこに載る子供たち。約1.8tの重量があるそうで、16人の男性で運ぶのが限界だとか。運び始めて数分で、肩が腫れてくるそうです。

神輿は、家の門に提灯を掲げた氏子さんの家の前で止まり、その家の安寧と発展を祈ります。その家の人は神輿の担ぎ手にお酒やお菓子をふるまいます。それを氏子さんの家ごとに繰り返し、日が暮れるまで神輿担ぎは続きます。

地域の祭りがもたらしてくれるもの

今回、この祭りに私を誘ってくれたのは地元青年団OBの藤田洋輔さん。藤田さんとの会話の中で、この祭りの現代における意味が見えてきました。

同窓会】自分が青年期を過ごした地元の仲間と集える機会って、なかなかないと思います。「おぅ、久しぶり!」そのように、かつての仲間と会えることが約束された年に一度の行事。藤田さんも、この祭りの前、「とても楽しみ」と興奮していました。

心の拠り所/帰る場所】藤田さんのお父様も、かつては神輿の担ぎ手でした。また、今回の祭りを藤田さんのご両親、藤田さんの奥様と子供、奥様のお母様も見学されていました。自分の家族と、神輿を担ぐ仲間、訪問先の氏子の家。自分が大切にする人々が密に重なり合う瞬間が祭りによってもたらされていました。この祭りは恐らく、藤田さんにとって大切な心の拠り所になっているのでしょう。

異業種交流の場】「この家のご主人はこんな仕事をしている人。この担ぎ手はこんなことをしている人。この道をまっすぐ行ったら○○会社の事務所がある。」藤田さんは神輿と一緒に歩きながら、いろいろな人のことを話してくれました。図らずとも、この祭りは異業種交流の場になっていました。

祭りを残す

釣殿神社の例祭の翌日、筆者は大和郡山の町を歩いていました。薬園八幡神社に少し立ち寄ったのですが、神社の手水舎(手を洗う場所)の前に金魚がたくさん入った水槽がありました。「祭りがあったが、まだ金魚が片づけられていない」と、神社の方が教えてくれました。大和郡山の町の家々には提灯が掲げられ、ここでも同じような祭りがあったのでしょう。

一方、筆者の住む生駒市の住宅地は、元々山だった場所を宅地化した住宅地であるため、そのような伝統的な祭りはありません。隣の家の人がどのような方なのかを知る機会も少なく、町に住む人々のつながりは希薄です。祭りという伝統行事は、そこに住む人々の人格形成に良くも悪くも影響を与えているかもしれません。

佐紀町の祭りでは、かつてはかなりの数の神輿が巡行していたそうです。しかし、現在は担ぎ手が少なくなり、数基の神輿が担がれているだけになってしまっています。是非、このような素晴らしい文化は後世に残していっていただきたいですね。

今回の読み解き手法
釣殿神社の例祭への参加、及び、青年団OBの藤田さんに対する短い取材をベースに祭りについて考察。
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