コロナの外出自粛がはじまる少し前、バドミントンの指導者である岡本茜さん(当時21歳)とお話しする機会がありました。彼女は大学時代に彼女自身のバドミントンチーム「Steps.@」と大学のバドミントン部を立ち上げた行動派。そのお話は聞き手である僕たちにも役立つお話でした。茜さんはどのような人生を過ごすことで若くして自分のチームを立ち上げることになったのか。そこから僕たちは何を学べるのか。また、それは奈良の魅力向上にどう関係するのか。少し長文ですが、是非、お読みいただければと思います。
変わった小学生、そしてバドミントンとの出会い
茜さんは、少し変わった小学生でした。自分の考えがしっかりとあって、マイルールに従って行動する子ども。例えば、学校には行くけれど、授業中に他の教科の宿題をしてしまうことも。
茜さんのお母さんが先生に呼び出され、理由を聞かれます。茜さんの説明は「先に宿題をやっておいたほうが夏休みを楽しめると思うから」と。茜さんのお母さんも「なるほど、OK」という反応だったそうです。
ただ、習い事や運動の教室はいくつか試したものの、興味が続きませんでした。
そんな中、小学校6年生の時、友人の家の前でたまたま遊んだバドミントンが楽しくて、その年のクリスマスプレゼントにバドミントンのラケットを買ってもらいました。そして、奈良の市民だよりに載っていたバドミントン教室をお母さんが勧めてくれ、通うことに。そこで、1人の人と出会います。その方は、茜さんにとってとても大切な人です。教室の主催をされていたその方は「この子にバドミントンを続けさせてあげて」とお母さんに声をかけました。そこから、茜さんの不思議なバドミントン人生が始まります。
茜さんが通っていた小学校は同じ校区の中学校と隣接していました。そして、放課後の部活動の時間になると、中学校のバドミントン部のお兄さん・お姉さんたちがランニングしていました。それを見て、茜さんはお母さんに「中学校のバドミントン部に練習に行きたい」と相談します。お母さんの返答は「行きたいなら行ってもいいよ。ただし、一人で相談に行きなさい」というもの。
そこで小学6年生の茜さんは中学校の門戸を叩き、バドミントン部の顧問に直談判します。そしてとうとう、飛び級のような形で中学生の練習に入れてもらえることに。
・・・サトタケも一児の親ですが、茜さんのお母さんの「子どもがしたいことは基本的に認める」「ただし、自分で行動させる、サポートはし過ぎない」というスタンスが、茜さんの性格形成に大きな影響を与えていたのではないかと想像しました。そんな環境の下で、茜さんはすくすくと育ち、「自分のしたいこと/すべきことを全力で進める」という性格が形作られたのではないでしょうか。
バドミントンに没頭した中学時代
さて、中学校でもバドミントン部を楽しんでいた茜さんですが、さらに練習ができる環境を与えてもらいます。それは県内で強豪校とされている高校でした。偶然、当時の中学校のバドミントン部顧問の先生と高校のバドミントン部顧問の先生が知り合いであったということもあり、そのつながりで高校のバドミントン部にも行かせてもらえるように。
一方、勉強は全くできず(笑)、学年で下から2番目の成績でした。茜さんは、練習に通っていた高校へ進学したいと思いながらもその高校が私立高校だったため、公立へ受験することを考えます。そのために数か月間、集中して勉強をこなしました。ただ、最終的にはスポーツ推薦の枠が出来たこともあり、高校(奈良大学附属高等学校)に進学することができました。
指導者という目標を見つけた高校時代
不登校
高校では何(勉強かそれ以外)に力を入れるのかによってクラス分けがされており、勉強が簡単なコースで入学。学力の差が開くことは、当時は気にしていませんでした。とにかく部活に夢中という感じでした。ただ、中学校のバドミントン部に比べて高校のバドミントン部は本気度が高く、練習は毎日、全国を目指す仲間も多く競争が激しかったそうです。
時間通りに学校に行く、友達と仲良く過ごすといった当たり前のことが苦手だった茜さんは、普段の生活に慣れることに苦労したり激しくなった部活動のバランスにもついていけなくなり、不登校になりました。
それを救ってくれたのは、ひとつは、茜さんのお母さんの茜さんへの接し方。茜さんのお母さんは、常に叱るときも心は肯定的でした。だからこそ茜さんが怒られている時も、愛を感じることができました。茜さんが不登校になったとき、「早く学校に行きなさい」とも言わなかったそうです。「〇〇先生(中学校の先生)から連絡きてるよ」と伝えてくれたり、日常で、学校に行きたくないと思っていた時も、行きなさいと言われないことで、自然と「明日は行ってみようかな」と思えてくるのです。
もうひとつは、バドミントン部の顧問とキャプテンに呼ばれ、体育館で面談した時の体験。面談の途中で、当時のキャプテンが号泣してしまいます。茜さんは「自分だけがしんどかったんじゃなかったんだ。この人を泣かせてはいけない」と思いました。そして次の日から高校に戻りました。
学校を休んでいたため成績が悪く、留年の可能性もありましたが、その時の先生の助言もあって勉強を頑張るとクラスでトップの成績に。そのあたりの行動を学年主任の先生が見ていて、茜さんの通っていた標準コースのコース代表として学校紹介のスピーチをする機会ももらえました。
指導者という目標の発見
高校3年生の6月に引退試合があり、そこで勝ったら全国大会まで行けて引退を引き延ばせるのですが、茜さんは勝てなかった。それ以降、部活もないために明るい時間に家に帰ることに。スケジュールもガラガラでそれを埋め合わせるためにバイトに行くけれども、このままでは他の人たちに「負ける」と茜さんは焦りを感じます。
茜さんはとにかく「何かを身につけたい」と思っていました。
そんな中、心に浮かんだのはバドミントン部の監督の先生。先生は謙虚で、生徒を主役として立てながら、結果も出すような人でした。バドミントンの選手になるのではなく、バドミントンの指導者になるという選択があることに、茜さんは気づきます。
茜さんの描く指導者像に影響を与えた、反面教師も存在します。ひとつは、生徒の心を傷つける発言をしてしまう先生がいたこと。もうひとつは、パートさんをいじめるバイト先のオーナー。このようなことは私はしたくない、私が関わった人を幸せにしたい。それが茜さんの指導者としてのビジョンとなります。
学生コーチ
奈良大学附属高等学校の野球部は甲子園に出場する強豪チーム。そこには「学生コーチ」という立場の学生がいて、他の生徒の練習のサポートをしていました。偶然、その同級生と茜さんは仲が良く、バドミントン部でも学生コーチができるのではないかと思います。
その同級生と一緒にバドミントン部の監督に交渉に行き、「学生コーチをしてもいいよ」と返事をもらいます。奈良県下では初のバドミントンの学生コーチに。
半年ほど学生コーチを務めることで、茜さんの視野は広がります。選手だったときは自分を磨き、一軍に入って勝つことだけを考えればよかった。しかし、指導側の視点は全く異なります。バドミントン部の練習生にもいろいろな人がいます。高校からバドミントンを始めたために(経験を十分に積めないために)自分が勝ち進めるレベルに限界があると諦める人、怪我をして自信を失ってしまう人。そういった人たちの心境も大切にしたい。そして、戦績や成績だけで評価されるのではなく、その子の本質が評価されるように人としても育てたいと思うようになります。
一方、安易にコーチになろうとする人、ただ肩書が欲しい人(偉そうにしたい人)も存在します。「その人から学んで生徒が幸せになれるのか?」という視点で茜さんは自分を律します。
また、強い部活の学校に行っていると、「その高校のバドミントン部、強いよね」と部活の看板にあやかって(すがって)生きることもできるけれども、それでは自分の力で生きていることにはならない。自己肯定感を高めて、自尊心を育んだ状態で社会に出て欲しい。また、忍耐力・集中力・コミュニケーション能力といった、社会に出ても活かせる能力を身に着けてもらいたい。そのようなポリシーが茜さんの中にだんだんと生じてきます。
茜さんは、それらのビジョンを実現するため、バドミントン教室を開こうと思うようになります。
新しいことに取り組み続けた大学時代
茜さんは2016年4月に奈良大学に入学し、そこから様々なプロジェクトに関与します。
ただ、それらの説明の前に、少しだけ大学生活のお話しをしましょう。茜さんは奈良大学の文学部に入学。奈良大学を選んだ理由の一つは、自宅からバイクで5分の場所だったからだそうです。高校の先生からは立命館大学も狙えるよと言われたけれども、往復の通学に必要な3時間もあれば、バドミントンの指導が一つでもできる。それを4年間続けたら大きな差になってしまう。
またもう一つの理由は、高校3年間担任だった先生が国語の先生で、当時は「先生になろうかな」と思っていたこともあります。それらの理由から、同大学に進学しました。
入学式で決めていたことは「一人の人に声をかける」ということ。くだらないことでも一緒に楽しめるような友達が欲しかった。そこで、広島から来た同級生に声をかけてご飯を食べることに。その子も含めて4人のグループで大学生活を過ごしたそうです。バドミントン教室を開きながら大学生活も送れたのは、その4人がいてくれたお陰だとか。
バドミントン教室「Steps.@」の設立
子どもたちの心を傷つける指導者はなくしていきたい、変えていきたい!でも、大学1回生がキャンキャン吠えていても意味がない。だから、有名になって影響力を持った上で、自分がやりたいことを突き詰めたい。当時の茜さんの口癖は「石油王になりたい」というものでした。
いろいろと大人の人に出会う機会があり、ある会社の経営者と出会います。そこで「バドミントン教室をしたいんです」と伝えると、その経営者は「なぜしたいと思うの?」と聞いてくれました。「どんな教室にしたい?誰を対象にして教えたい?」といったようにメンターとしてさりげなく調整を図ってくれて、最終的には「いつから始める?どこで始める?」と具体化してもらえました。
茜さんはグーグルマップで近隣の小学校・中学校、または、地域の体育館に片っ端から電話をかけて場所探しも実施。同時に、生徒集めも行いました。・・・そんなメンターのサポートと準備を経て、2017年1月7日、大学1回生の茜さんはバドミントン教室「Steps.@」をスタートさせます。営利目的ではないため、いただく費用は消耗品の経費分程度。
立ち上げ当初は3名の生徒が、来てくれました。もちろん綿密に準備していったけれど、人前で話をすると早口になってしまったりして納得のできる指導が出来ませんでした。茜さんは落ち込みます。また、左利きの子に適切なアドバイスもできない(茜さんは右利き)。「私はバドミントンしかできてないやん(指導がちゃんと出来てない)。」それから茜さんは、振り返りの記録を付け始めます。毎回、準備と振り返りを繰り返す習慣に。
一期生は最終的に7名になったのですが、全員が中学3年生、夏休みの受験準備の季節になってSteps.@に来れなくなってしまいました。つまり、生徒数がゼロの状態に。茜さんは教室をやめるという選択肢も考えますが、生徒が帰ってくる場所を残したいと思い教室を存続させることに。小学校や中学校の前でビラ配りを続け、二期生は20名ほど集まってくれました。
スクールサポーター
奈良市にはスクールサポート(学校教育活動支援事業)という制度があります。学生が小中高などの学校の授業をサポートできるというものです。茜さんはバドミントンのスクールサポートを勧められ、2017年3月から小学校でバドミントンを教えることに。
当初は子どもが苦手だった茜さんですが、初回は子どもの純粋なまなざしに戸惑い、自分から挨拶できないという失敗をしてしまいます。そこで、子どもから学べることが多いと気づき、興味を持つように。
部活の立ち上げ
茜さんの大学入学時、奈良大学にはバドミントンのサークルはあったけれども正式なバドミントン部はありませんでした。高校(奈良大学附属高等学校)のバドミントン部の先生から大学にもバドミントン部を作って欲しいと言われ、茜さんは大学側に交渉して、同部の立ち上げを実施。2018年4月1日、茜さんが2回生の時、同部の初代主将として就任します。
ただ、茜さんは規約や会計の役割分担をきっちりと決めたい性格だったため部のメンバーと温度差が生じてしまい、ごっそりと辞められてしまいます。メンバーの求めていることに合っていなかったと反省し、1年の休部の後に、2018年4月1日からバドミントン部を再開、1回生たちが入部してくれました。
PechaKuchaNight奈良での登壇
先述の、メンターである会社経営者が、2018年4月1日に奈良で施設をOPENするということで、茜さんはそのイベントでバドミントンのブースを出します。そこで「編集奈良」のスタッフと出会い、PechaKuchaNight奈良という場で登壇してはどうかと持ち掛けられます。
茜さんはOKと返答し、これまで2回ほど、PechaKuchaNight奈良に登壇することに(2018年・2019年)。
日本バドミントン協会「バドミントン未来創造アカデミー」
Steps.@の活動が茜さんの中で日常化してしまった時、茜さんは漠然とした不安を感じます。もっとステップアップしなくちゃ。そのようなコメントをSNSでつぶやくと、日本バドミントン協会「バドミントン未来創造アカデミー」に応募してみてはどうかとアドバイスが来ました。
同アカデミーは2018年7月から日本バドミントン協会が始めた事業で、バドミントン界の未来を担う人材を育てる事が目的。茜さんは高校時代の国語の先生方のサポートを受けながら、一次の書類審査、二次の小論文審査を通過し、同アカデミーの一期生メンバーとなります。
月一度の東京での研修への参加、日本全国で行われるバドミントンの講習(バドミントン・キャラバン)など、一年弱の活動期間中に参加しました。
チームでの教室運営に切り替え
これまで、Steps.@の教室運営は茜さん一人で実施してきましたが、「チームで成し遂げる」という経験がなかったのでトライしてみようと思い、2019年4月から同教室のチームメンバーを募集することにします。
ただ、想いが違うと長期的に付き合いづらいこともあるため、一人ずつ同じ想いの方をスカウトする方式を採用。コーチ、トレーナー、イベント係、経理など、6名のメンバーが参画してくれます。そのうち二人は学生メンバー。
そして茜さんは、指導者の指導という新しいタスクも覚えます。
心身の疲労から休息とマネジメントへの転向
さて、上記を振り返ると、茜さんは高校時代から休みなく、かなり多くの活動に従事されていることが分かると思います。そしてそこで蓄積した疲労は、茜さんの心身を少しずつ蝕んでいました。
2019年の11月、指導者の指導を行っている中、急に身体の辛さを感じます。そして後日体育館に行ってみると、「体育館がガッと離れていく」ような感覚に襲われます。
メンバーの一人に「きついです」とLINEを送り、メンターとして相談している人々にも「行きたくない」と相談。その11月から年末にかけては、日付や時間の感覚も鈍くなっていきました。「自分は変わらないけど、みんな変わっていってね」という気持ちだけが存在している状態に。
メンバーに「考える時間が欲しい」と相談したら、メンバーは「そう思うときにそうしたらいいよ」「いよいよ頑張る時が来たね」と言って、教室の運営を引き受けてくれることに。茜さんのその時の気持ちは「安堵」だったそうです。茜さんがその時それだけ疲れていなかったら、もっとメンバーに対して感謝・感動の気持ちを伝えられたのでしょう。
茜さんはしばらくすべきことは何もせず、それまでしたことのなかったことをしようと、気分転換で心身を癒します。Steps.@はもっとより良いチームになる自信はありましたが、その時、茜さんが最も欲しかったのが「準備の時間」でした。
それが良かったのか、2020年1月に現実世界へと戻ってきます。メンバーに一人ずつ会って話をして、教室の調整を図り、現場ではなく、経営者的な立場で教室運営に参加することに。
・・・
以上、茜さんの21年の人生のダイジェストをお届けしました。茜さんのバドミントン人生を振り返ると、選手から指導者、そして経営者的な立場へと変化していったことが分かると思います。茜さんは大学を卒業し、2020年4月からスポーツメーカーで働き始めています。茜さんのさらなる活躍が楽しみですね。
YouTubeのペチャクチャナイトでもコメントされていますが、「周りの人を幸せにできる人になる」ことを是非、実践していっていただければと思います。
さて、残りの紙面では上記のストーリーから僕たちが学べることを手短に分析・整理しています。よろしければこちらもご覧ください。
岡本茜さんの人生から学べること<分析>
「何かを成し遂げること」の条件
題意の条件として、茜さんのストーリーから以下が学べたのではないでしょうか。図の1~3がこれらに該当します。
<1.好きを見つけて好きにフォーカスする>
・(小学生時代)いろいろなものに触れ、自分の「好き」を見つける
・親が子どもの「好き」を応援する(最低限の環境や道具を用意する)
<2.メンターの影響>
・親が子どもの「物事を進める力」を意識する(自分で相談に行かせる)
・メンターの存在(相談できる大人たち)
・メンターの存在(周囲の同級生を見て焦る気持ちも大事)
<3.方向転換を図る>
・方向転換(選手でなく、指導者が向いていると思い方向転換)
・方向転換(現場ではなく、経営者的な立ち位置で教室に参画)
何かを追求すると世界に通じる=奈良の発展へ=
地図を眺めると面白いのですが、小学校~大学までの間、茜さんは、大げさに言えばタテ・ヨコそれぞれ2km程度のとても小さなエリアの中で人生の多くの時間を過ごしていることになります。
ただ、その声は、PechaKuchaNight奈良で大きく発信され、また、バドミントン未来創造アカデミーに認められることで日本全国レベルの活動につながっています。
これは、一つのことを追求してそこに秀でることで、世界に通じるコンテンツとなり得ることを意味するでしょう。
茜さん自身は、「奈良」というキーワードを全く意識せずに活動されていました、しかし、彼女の活動は奈良の価値を高めるものであることは間違いないでしょう。何かに秀でた、優れた人材を育てていくことも、地域創生の大事な条件であることを改めて認識させられます。※先述の図の<4.奈良から世界へ>がそこに該当します。